東京カートグラフィック株式会社
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 地図の学際 
地図の学際 とは

第9号
9号表紙

1.  分布図が語る東京の昆虫相

2.  地震と地図

3.「地図で書く自分史」のすすめ

4.  2006年 TCG10大ニュース

     

「地図で書く自分史」のすすめ
潟Aイ・ピー・エイ 代表取締役社長 前田義寛

自分史講座で試みたこと

 数年前、横浜市の磯子コミュニティセンターで自分史講座の講師を務めた。地域に住む70歳代後半の人たち男女10人が受講してくれた。小学校の女性教師、飲食店経営者、大手企業の社員、市役所職員などさまざまな職歴の、いつか自分史を書いてみたいという人たちだった。

 私は自分史講座を、「自分史とは何か」「なぜ自分史を書くのか」「自分史の形式」「自分史の書き方」「自分史の公開・出版」「自分史のいろいろ」など12回に組み立てて講座を続けた。

 かくいう私は長い間、編集者としてまた出版プロデューサーとして、企業の広報誌、社史、経営者自伝、自分史等の編集・出版にかかわってきた。自分史講座はその副産物のようなもので、私が神奈川県生涯学習情報システム「PLANETかながわ」に自分史指導員として登録していたからである。

 私の講座に参加したのは、元教師を除いてその人生において文章を書く機会はほとんどなかった人たちであり、最初から、書くということへの不安感のようなものが感じられた。また、自分の人生のどの部分をどのように表現すれば自分史になるのか見当もつかない様子だった。

 私は講座の導入を「私を語る」時間からはじめた。一人ひとりに、長い人生の中で最も記憶に残っていること、書いてみたいことを順番に語ってもらった。「私は少年時代に養子に出されて苦労して育った」「長い間営んできた店を子どもに渡すときの辛さが忘れられない」「河畔で育った私を育ててくれたのは千曲川そのものだった」「教え子が成長していくさまを見ることは教師冥利につきる」「生まれ育った新潟の子ども遊びが懐かしい」など、受講者はそれぞれの「私」を回想して語った。

 次に私は「地図を書く」宿題を出した。自分史を書く場合、普通は生い立ちから始まり、少年期、青年期、壮年期、老年期と、時系列的に整理しながら回想していくことが書きやすい。自分史を書くためには、日記、手帖、手紙、写真、学生時代の作文、学習や課外活動の記録、社会人となってからなら会社の手帖、業務日誌、社内報、出張報告書の手控えなど、家庭人としては、人生の節目の記録、手紙、写真、趣味や旅行の記録といったさまざまな手許資料が基本情報源となる。肉親や友人知己の証言も貴重な資料だ。

 だが、もしかしたら記憶や記録の谷間にこそ、忘れ去っていた大事な事実や大切な思い出が埋もれているかもしれない。そこで私が自分史講座で提案したのが地図による想起法だった。「人生の節目での記憶や、思い出の痕跡を頼りに地図で視覚化してみましょう。そうすると、事実と事実の隙間にある何かが見えてくるはずです」と説明した。翌週、全員が地図を描いて私に差し出した。

 長年住みなれた自分の街の変遷を時代別に色分けしたカラフルな地図で表現した人。少年期に養子に出され環境に馴染めなかった悲しみの町並みを描いた人。子どもの頃、遊びまわった千曲川河畔の今と昔の比較図を描いた人。でき映えはともかく、手書き地図はそれぞれの人生の断面を熱く語っていた。地図を描くことで想起されたことを書きとめていけば、自分史は膨らんでいくはずだ。

私の自分史地図と出合った

 俳優の小沢昭一さんとは不思議な縁がある。ずいぶん前のことになるが小沢さんが「日本の放浪芸」で昭和46年度日本レコード大賞企画賞を受賞して話題になった頃、「この人と1時間」という記事を書くためインタビュー取材したことがある。早稲田の先輩、東京・蒲田で同じ小学校(当時は国民学校)出身だったことがわかった。そのためか、取材がスムーズに進行したことを覚えている。

 昨年、その小沢さんがラジオ番組「小沢昭一の小沢昭一的こころ」で、私の趣味である「陶礫」(海岸に漂着した陶磁器破片)のことを「海岸でお宝探しに熱中する変った趣味の人がいる」と紹介してくれた。その後のことだが、偶然に小沢さんの著書『小沢昭一 わた史発掘』(文藝春秋刊、昭和53年)を古本屋で見つけた。眠っていた少年期の思い出と出会った気分だった。小沢さんの生家である小沢写真館は東京・蒲田にあり、私が小学校3年生まで住んでいた町と小沢さんの家とは200.300メートルしか離れていなかったからだ。

 この本は小沢さんの自分史であり、また「戦争を知っている子供たち」にとっては時代考証本でもある。頁を繰ると昭和10年の蒲田区女塚町の手書きの「我が家の近所の図」が掲載されていた。私はその地図から自分が生まれ住んだ場所を確認し、疎開するまでの約8年間の蒲田生活を回想することができた。小沢さんの地図に「中華料理 維新号」が描きこまれていた。たしかその隣は自転車屋であったはずだ。向かいには西井電機店、喫茶店「ブラジル」があった。小学生になって通い始めた剣道の道場のことも思い出した。小沢さんの手書き地図に乗って、私は少年期の街へタイムスリップした思いだった。

 しばらくして私は、蒲田・相生小学校16期同期会が作成した「1940年頃の蒲田西口」という地図を入手した。同窓生たちが記憶を頼りに当時の地域マップを作成したものだ。我が家のすぐ前を通っていた女塚本通りを中心に半径2キロほどのエリアの地名、番地、商店名、居住者名(一部)が記載されている。当時の区画整理道路も示されている。「出征兵士見送り場」、「原っぱ」、「夜店(木曜日)の場」、「モダンなアパート」、「学校への近道」、「人力車が屯していた」など、記憶に基づいた時代を物語る注釈が随所に書き込まれている。これは16期生が共同で作った「俺たちの町地図」だと思った。

 かつて蒲田は映画の町であった。この町に松竹撮影所があり、映画俳優が町を闊歩したのである。『昭和二十年東京地図』(西井一夫著、写真・平嶋彰彦/1986年刊、筑摩書房)によれば、大正9年、松竹キネマの蒲田撮影所ができ、小津安二郎はここで「大学は出たけれど」、「生まれてはみたけれど」、「戸田家の兄妹」などの映画を次々と撮った。だがトーキー化が進むにつれ撮影所の上空を羽田から飛び立つ飛行機騒音が障害となり、昭和11年、撮影所は蒲田から大船へ移住したとある。そういえば映画青年であった私の父は、撮影所に憧れて蒲田に住み着いたと聞いたことがある。そんなことまで「俺たちの町地図」は思い出させてくれた。

白地図に何を書き込むか

 戦争文学の代表的な作品に古山高麗雄の『フーコン戦記』(1999年、文藝春秋刊)がある。北ビルマ谷地フーコン(カチン族の言葉で「死の谷」のこと)で戦い、片腕を失った兵士辰平が戦後忌まわしい戦争の記憶を戦死した戦友の未亡人文江と地図の上でたどっていく物語である。ある日、文江が戦時のフーコンの地図を作ってきた。白地図に戦史叢書や連隊史などから丹念に地名を拾って綿密な地図をつくり上げたのだ。戦死した夫への追慕なのか、戦争の悲惨な追憶を風化させないためなのか。辰平は未亡人の執拗なまでの地図作りを「今なお自分流に戦争を身近に引き寄せている」のかと、不思議な思いで見つめる。2人はそれぞれの思いでフーコンの戦争地図を作っていく。片腕を失った戦士は、地図によって失われた青春と忘却したい忌まわしい戦場の記憶を確認していく羽目になる。文江が地名を丹念に書き込んでいくたびに白地図は惨憺たる戦場と敗残兵の姿を鮮明に描出していく。

 私にとって、『フーコン戦記』と『野火』(大岡昇平)の2冊は、「戦争を知る少年」に、あの戦争はなんだったのか、また、軍隊と人間について考えさせてくれた輝ける戦争文学なのである。

 私が自分史講座で「自分地図による想起法」について講義したときは、単に手書きで思い出地図を描くことが自分史を書く上で役立つことを説明したにすぎない。しかし、現在ではパソコンを使って地図情報を自在に取り込んで、豊富な情報量の自分地図を作ることは容易だ。公式地図をダウンロードして、地図に写真や情報を挿入するなど、マイマップはその気になれば誰にでも作れる時代だ。地図で町の変遷を手繰ることもできる。たとえばインターネットで「築地の歩み 歴史地図&昔物語り」を検索すれば、関東大地震前後、太平洋戦争前後の築地周辺の町並みの変遷をたちどころに知ることができる。

 自分史ブームといわれる昨今、自分史を書きたい人がふえている。文章を書く前に、我が人生の一番大事な時代とその場所の地図を一枚描いてみてはどうだろうか。地図は雄弁な語り手である。それぞれの心の白地図に何を書き込むか。地図は自分史そのものなのである。