|
戦国大名の命運を分けた地形・地理
戦国時代において地図の持つ意味は生死につながる重大性を持っていました。地形が戦闘に与える影響は近代戦でも重要であり基本的に下記の条件が歴史上、戦果に大きな影響を与えてきました。
@高低差(一般的には高地からは投擲兵器の飛距離が伸び見通しもよいので攻撃しやすい。また、攻めにくいために守りやすい)
A平地面積(大軍を迅速に展開・布陣するには広い平地が必要)
B川や海、沼沢地などの徒歩移動不可地(移動不可又は大きな負担がかかる。防衛上は利点となる)
C主要路の有無(円滑な移動:主要路がない場合には大軍移動に土木工事を伴う)
一般的にこれらは戦果に決定的な影響を与える重要事項です。しかし、ご存じのように伊能忠敬以前に正確な地図は我国には存在しておらず、戦国時代の地図は現代人から見ると非常に大雑把な表示に止まっていたようです。
それでも全く知らない土地を攻めるのですから、地図の有無は大変重要であり、苦労して情報の入手を行なっていたものと考えられます。地形や地理がもたらす戦いへの影響や物資の運搬などが戦国大名の命運を分けたといってもいいでしょう。
信長が甲斐の国に生まれていたら天下は統一できたか
地理や地形の持つ重要性を考える上で仮説を立てるなら、もし織田信長が甲斐の国に生まれていたら天下が統一できたかと考えると面白いでしょう。ご存じのように、武田信玄の甲斐の国は現在の山梨県にあたり、
中心の甲府盆地はぐるりと山々に囲まれており、現代でも決して交通の利便性が高くありません。当然、戦国時代は物資の流通にも大変な苦労をしていたようです。これは経済活動の困難さも示しています。
有名な甲州の煮貝も、海産物である貝を腐らせないために遠路、醤油漬けにして馬の背に揺られながら運んだために生まれたものであるという説があります。また、山に囲まれているということは、
当然敵から攻め難いというメリット(信玄存命中は本拠地甲府には大きな城がなかった理由の一つ)がありますが、一方で自軍も大軍を擁した作戦を行う場合に、移動や補給に大きな制約を受けます。
その上、平地が少ないので当時の経済力を示す石高(米の生産量)は当然低いものになります。商業流通の拠点で交通の要所を占め、広大な濃尾平野を有していた信長が逆に甲斐の国のような悪条件を与えられた場合に果たして天下統一の覇業を成すことは可能であったでしょうか。
甲斐の国が当時の中心都市の京都から遠く離れ、周囲を有力大名に囲まれていたことを考えると、ますます、信長をもってしてもこの地理的な不利は克服不可能なものに思われます。すなわち武田信玄は信長や謙信のために上洛が遅れたのでなく、
まさしくこの地理的・地形的な不利が彼を生涯苦しめていたといっても過言ではありません。
長篠の合戦の真実
長篠の合戦の跡地を訪ねるとその狭さと起伏の多さに誰もが驚きます。武田の騎馬隊と織田の鉄砲隊が激突した大激戦のイメージからはかけ離れた風景であることは間違いありません。近年の研究では騎馬隊と鉄砲隊の組織的集団戦闘はなかったことがわかり始めてきています。
およそ武田軍の3倍近い織田軍が陣城と呼ばれる要塞のような陣地を背に布陣して、そこに主に下馬して徒歩で武田軍が足元の悪い地形の中を突進して攻めあぐね、兵の士気が低下して退却戦に移った段階で、
圧倒的優位な織田の大軍による掃討戦で討ち取られたことが歴戦の勇士である武田の武将の戦没場所(激戦地から離れて退却途中地に多い)からも想定されます。これは地形や地理の研究なくしては成し得なかった説です。
謎の多い戦国時代
戦国の常として敗者の痕跡の抹殺と江戸時代という徳川による独裁政権下では自由な研究や文章の保存などが適切に行われなかったため(徳川神格化のための史実改ざん等)にたった400年前の近代の歴史でありながら、戦国末期の正確な記録は極めて少ないのが実状です。
文献が残っていない歴史を調査する上で、発掘調査や現地調査というフィールドワークは大変大きな成果をもたらします。関が原の合戦の布陣や実態、川中島の合戦の事実などまだまだわからないことばかりです。
桶狭間の合戦も未だに決戦地が特定できません。安土城も近年の発掘調査により、従来の姿と異なることがやっとわかってきました。
今後は発掘による考古学的調査や地理や地形などのフィールドワークや最新の地図技術を中心に多くの研究が進められ、よりリアルで迫力のある史実に迫ることができるでしょう。戦国時代の実像は大きく変貌し、知られざる真実を私達に見せてくれるかもしれません。
土地の持つ“気”
常に戦国時代の史跡を訪ねて感じることは「ここだ」と感じる土地の持つ“気”のようなものが存在することです。それは数百年の時を経ても強くそこに残るものであり、長い歴史を持った場所や激戦地などには必ず独特の“気配”が存在します。
私が最も気配を感じたのは真田幸村終焉の地といわれる安居天神(大阪天王寺区)です。私が最初に夏の夕暮れにたった一人で境内を訪れ、幸村最期の地といわれる場所に立った時、それまで全く無風であったのに突如涼風が吹き抜けました。
その時私は意味もなく全身に鳥肌の立つような“気配”を確かに感じました。しかもそれはたった一度きりで、しばらくその場所に止まりましたが二度とその場に風が吹くことはありませんでした。
真田幸村関連の多くの場所を訪れた後ということもあったかも知れませんが「ここだ」と感じる、何か特殊なものを感じました。似たような経験はその他の場所でも何回か経験しています。
土地にはそこにしかない歴史が今も息づいているのだということを、私達は決して忘れてはいけないと思います。
地図の楽しみ
私は史跡を訪ねる前に必ず地図を見ます。ルートの確認だけでなく地形を読み込み、なぜそこで戦闘が起こったのかや城の持つ地理的・地形的な意味を考えます。これにより旅への期待は大きく高まり、現地での調査もはかどり想像が膨らみます。
また、旅から帰った後も地図を見ることでイメージを確認しながら復習ができます。地図を見ながら地名なども史実に合わせてみると意味がきちんとつながり、感慨深いものがあります。
ただその場所に行くための道具として、現在はインターネットを利用して便利な地図を簡単に入手できます。しかし、本当の楽しみは実際にその地図の場所を訪れ、そしていろいろと歴史を想像することではないでしょうか。
地図はそうした『考える楽しみ』を我々に与えてくれる大切なものであると私は考えています。
|