東京カートグラフィック株式会社
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 地図の学際 
地図の学際 とは

第13号
13号表紙

1.
「地球に優しいエネルギー消費地図」を

2.伊能忠敬の偉業と佐野常民

3.
戦国時代と地図

4.
2008 年 TCG10大ニュース

5.
シリーズ カルトグラムで見る 「国民1人当たりの医療費支出と医師密度」

     

伊能忠敬の偉業と佐野常民
伊能忠敬記念館 学芸員 青木 司

伊能図評価の始まり

 地図には常に目的があり、その目的が終了もしくは内容が更新されれば廃棄される。つまり地図とはその時代のある一時期の情報を保持しているものといえます。

 伊能忠敬とそのグループが作製した通称「伊能図」も、1800年代初頭の海岸付近と主要な街道が実測により朱線で描かれ、通過した地名が情報として記入されている地図です。 しかも伊能図は、その完成から長く利用された地図でした。ここでは、今日伊能図がいかに利用され、忠敬の名が知れるようになったのかを幕末期以降についてその一端を紹介します。

 文政4年7月10日(1821年8月7日)、最終上程版「大日本沿海輿地全図」(通称伊能図)が老中・若年寄の前に並べられました。寛政12年閏4月19日に第一次測量出発から21年、 忠敬の死後3年を経て完成した最初の実測地図でした。この地図は、江戸城内紅葉山にある御書物蔵に収められました。その後、シーボルト事件により忠敬弟子や関係者が処罰され、 それまで蓄積されてきた測量や製図技術が途絶え、そして伊能図は、長く秘蔵されることとなりました。

 幕末期になってやっと国防上の必要性から正確な日本全図を必要とする時代が訪れ、伊能図は脚光を浴び始めます。しかし伊能忠敬個人に光があたるのは、伊能図の有用性が認められた明治10年ごろからで、 その再認識において重要な役割を果たしたのが佐野常民でした。

伊能図と佐野常民

 佐野常民は日本赤十字社の前身である博愛社を創設した人物として有名ですが、その他にも博覧会・畜産・美術等に顕著な業績を残しています。明治6年のウィーン万博にあたって、 明治政府に出した5つの目的のひとつに「国内の物産を収集することにより、学芸の進歩のために不可欠である博物館の建設を計画する」とあり、文化財や美術に対する思いが伝わります。 佐野と伊能図の出会いは、安政2年頃と思われます。

 佐野常民は佐賀藩士として、長崎海軍伝習所に第1期生として参加し、そこで総監永井尚志が江戸より取り寄せた伊能図小図を見る機会がありました。佐野はその重要性、 必要性を見抜き「百方懇請」して昼夜を問わずして写しを作りました。後日この図により航海中「確実精詳にして常にこの力に頼り暗夜燈火を得たる」(『故伊能先生事蹟』明治15年)と感嘆しています。 また上記のウィーン万博には正院地誌課に命じて内陸部が欠ける伊能図に彩色補筆させた伊能図を展示し、各国から賞賛されたと記しています(『故伊能先生事蹟』、『太政類典第二編』 国立公文書館」明治4〜10年)。

 明治5年、伊能家にあった伊能図を工部省が借出し写しを作成したのも、佐野が工部省と関連の深い時のことでした。明治6年5月、皇居炎上により正院地誌課が事務参考用に紅葉山文庫から取り出してあったがため伊能図正本が焼失します。 工部省が写しをとった伊能図と、のちに献納されたその元図が、その後の明治期における伊能図利用に大いに役立つこととなりました。

 明治5年、工部省の写しは、正院・内務省・気象庁を経て、その一部が現在国立国会図書館に、明治9年陸軍参謀局は伊能家献納元図から、明治10年海軍水路局は工部省が明治5年に写した伊能図からそれぞれ写しをとり、 現在国土地理院と海上保安庁海洋情報部にその一部が伝来しています。他にも慶応年間と明治3年に開成所および大学南校、明治4年川上寛、明治10年高橋不二雄、同年文部省、 明治11年内務省地理局、明治12年陸軍参謀本部、明治14年内務省地理局が、伊能図を基にして日本地図を作成しています。そして最終的に、明治17年陸軍参謀本部が測量事業を各省から集約して伊能図をベースにした輯製20万分1図の作製を開始し、 近代測量による帝国20万分1図に置き換わるまで、伊能図はその地図としての役目を果たすのでした。実に長い間利用された地図といっていいでしょう。

初の科学的理由での贈位

 一方、佐野常民は明治13年、大蔵卿となり千葉県下種畜場見分の巡視途中の12月に伊能家に立ち寄り、伊能図・測量器具等を見てその感激をしたためています。その後、忠敬を有名にさせる贈位が行われます。
明治15年9月18日 香取郡長大須賀庸之助が、千葉県令船越衛あて伊能忠敬の贈位を申請
明治15年9月29日 佐野は、東京地学協会にて講演し忠敬の贈位と偉功碑建設を提案
明治15年12月20日 千葉県令から太政大臣あて贈位上申
明治16年1月 東京地学協会会頭能久親王から太政大臣あて贈位上奏
明治16年2月27日 伊能忠敬に正四位の贈位

 ちなみに千葉県令船越衛は、明治3年、佐野と兵部省で一緒であり、東京地学協会には忠敬の弟子、箱田良助の子・榎本武揚が創立者として参画しています。伊能図は、 国家のために役立ったのはもちろんのことですが、贈位には「故伊能忠敬地学の偉功を追賞して位階を贈る」(『公文類聚第七編』国立公文書館)とされ、明治10年代までは、 公家や明治維新の功労者・精神的支柱となった人たちにしか贈られていなかったのが、忠敬のように科学的な理由による贈位は初めてのことといって良いでしょう。

 さらに佐野は、東京地学協会による偉功碑建設に向けて奔走することとなります。明治16年10月、宮内省から建設費の一部として100円を得て、最終的には明治22年4,392円をもって東京芝公園丸山に偉功碑を建設しました。 その後戦争中の金属回収により撤収されましたが、昭和43年同協会は、新しく石碑を建立しました。佐野と伊能家とはその後も親しく交流があり、明治24年頃には、忠敬から数えて4代あと(景文)の三女が東京の佐野家に行儀見習いにあがっています。

等身大の忠敬の実像―「伊能忠敬記念館」

 忠敬が全国的にその名が知れ渡るのは、教科書に登場してからです。明治19年『小学読本』掲載後20種以上、明治20年『修身』掲載後40種以上掲載されました。そしてついに、 全国唯一同一の内容である、国定教科書に明治37年から昭和20年まで『修身』において「勤勉」「迷信を避けよ」「師を敬え」という徳目のなかで現在の4年生時に教えられていきました。 戦後も、「道徳」に取り上げられ、また今では、社会科(6年生)において学ぶべき歴史上の人物42人の1人として、学校教育に登場しています。

 伊能図及び忠敬については、明治以降各種書籍が出版され、戦前までは「偉人」として、現在は50歳を過ぎてから第二の人生を生きたとして「生涯学習の先人」、または「ウォーキングの先駆け」のように語られ、 話題とされていますが、偉業の大きさに比べて詳細な部分では、実はわからないことが多く謎に満ちているというのが実際です。

 私が勤務する伊能忠敬記念館では、少しでも忠敬の実像に迫りたく、偉人忠敬ではなく等身大の人間忠敬として捉え、資料の管理・研究・教育普及などに取り組んでいます。