|
地図の仲間たちの証言
故西山満喜夫さん(東京カートグラフィック渇長)の1周忌にあたって、ご遺族が追悼集を編まれることになり、編集者としてお手伝いする機会があった。西山さんは、戦後、新宿伊勢丹にあった「第64工兵技術大隊」(後に米国極東陸軍地図局:AMS-FE)に入り、米軍の指揮下で日本地図の製作に従事した時期があった。
追悼集では、西山さんのAMS 時代の先輩、同僚だった青野辰雄さん、古原雅郎さん、船山文蔵さん、鈴木武雄さんらに集まっていただき「日本の地図調整の青春時代をともにした仲間たち」という座談会を開いた。いずれもAMS でアメリカの地図調整技術を学び、その後、日本の地図業界の発展に貢献した人たちだ。
西山さんの地図にかけた人生が、AMS 時代の仲間たちとともに地図調整の修練を重ね、人間的な交流を深めた所産であったことが、4人の皆さんの回想からも読み取れた。「AMS」は編集者である私の脳裏にも強く焼き付けられ、いつかその時代の地図を見たいものだと想っていた。その機会が思いがけなく訪れた。
AMSの立体地図と出会った
埼玉県草加市にある鞄n辺教具製作所という地球儀の製作会社がある。東海大学との連携による人工衛星データに基づく精度の高い地球儀製作など、この分野では実力のある地球儀屋さんだ。
昭和12年の創業から4代目の経営者の渡辺美和子さんからこの会社の3階に「地球&宇宙のミニ博物館」があるとうかがい、東京カートグラフィックの猪原社長と連れ立って見学に出かけた。
展示室には300年前のオランダで作られたファルク地球儀、天球儀のレプリカ、創業者渡辺雲晴さんが50年以上前に作った地球儀からミニプラネタリウム、天体模型から岩石標本まで、狭い部屋にぎっしりと地球、宇宙に関する資料が展示されている。
驚いたのは渡辺さんが倉庫から取り出した「立体地図」だった。まぎれもないAMS 製作の地図だ。創業者の雲晴さんは東京・築地で創業、本願寺やGHQ(連合軍最高司令部)と関係を持ちながら地球儀製作業の道を拓いた人だが、その過程でAMS が製作した立体日本地図を入手、保管してきたという。
展示室の保管箱には、関東、東北など日本各地の立体地図が70p×40pほどの大きさに分割され大切に収蔵されていた。保存状態は比較的良好であった。奥日光の山々、中禅寺湖などが実測の3倍で表現されていることが指先で確認できた。半世紀を経た凹凸から、戦後の日本の地図調整の変遷が伝わってくるかのようだった。
渡辺さんは北区飛鳥山博物館にも同様のAMS時代の立体地図が収蔵されていると教えてくれた。
北区に寄贈された立体地図
戦後、米軍は昭和20年から27年まで、新宿伊勢丹を接収、AMS を設置し占領目的に添った日本地図の製作を開始した。昭和28年3月、講和条約の発効に伴い北区王子にあった米軍第7野戦病院(王子キャンプ)へ移転した。
これについては地図研究者の長谷川敏雄さんが『北区飛鳥山博物館 研究報告』(第10号)で「北区所蔵米軍地図資料の一考察」と題して綿密な論文を発表していることがわかった。
それによると、同館には「CENTRAL JAPAN 1:250,000、PLASTIC RELIEF MAP」が収蔵されている。長谷川さんは昭和35年6月18日付の読売新聞が「米軍地図部長司令官ストリックランド中佐が退官するにあたりAMSが製作した立体地図を北区に寄付した」と報じたと記述している。
しかしこの立体地図がどのような技術で製作されたものか、また王子キャンプ(現在、北区中央図書館となっている)で実際に製作されたものかどうかは定かでないようだ。
立体地図製作のためには精緻な母型が欠かせないが、「三次元彫刻作成機で凸版原板を作成した」のか「母型から真空成型機でプラスチック立体地図製作を米国で作業した」のか、諸説があるらしい。長谷川さんの調査ではAMS 内に立体地図を製作した事実は確認できなかったという。
私は飛鳥山博物館を訪ね、学芸員の中野守久さんの特別の計らいで収蔵庫に保管されている立体地図の巨大なパネルを見学することができた。天地2m、左右3mはあろうか、日本中央部の立体地図である。保存状態は良好とはいえず、富士山部分には裂け目があり、充填した綿のようなものが見えた。
しかし、戦後の混乱期に王子キャンプで米軍が地図を作っていたこと、そこでは数百人の日本人技術者が地図調整に従事していたこと、そしてその中から、戦後から今日まで日本の地図産業の発展を支えてきた人たちが輩出したという事実を想うと感慨深いものがあった。AMSこそ戦後の日本の地図の仲間たちの原点だったということが実感できた。
AMS の仲間たちが熱く語った
座談会で「日本の地図調整の青春時代をともにした仲間たち」は半世紀以上も前のAMS 時代を懐かしく回想し熱く語ってくれた。西山さんは、昭和26年から28年までAMS に勤務、その後、青野さんたちがパシフィック航空測量梶i現潟pスコ)を設立した時に移籍、昭和35年に独立し、現在の東京カートグラフィックを創業した。
青野さんは、戦時中は陸軍測地部で測量技術を身につけ、アメリカの新しいマッピング技術を学びたいということからAMS に入り、「チーフ・オブ・フォトグラメトリスト」(航空写真測量技師長)として活躍した。昭和28年、青野さんは「日本とアメリカの架け橋となる航空測量の会社」を目指してパシフィック航空測量鰍設立、
このときにAMS の仲間たちであった西山、鈴木、船山さんたちも新会社に加わったのだ。
西山さんや鈴木さんはAMS 時代に、スクライビング法という画期的な地図調整の手法を開発している。古原さんは日本のコンピュータ利用黎明期にAMS に入り、手計算で座標計算や三角測量の計算などを経験した。やがて古原日本の地図史に残した米国陸軍地図局(AMS)の足跡さんは日本で最初に輸入された商用電子計算機Bendix-G15と出会い、以来コンピュータ畑で活躍することになる。
西山さんは平成19年2月15日に逝去されるまで、地図調整業一筋に生きた。新宿伊勢丹にあったAMS はこの4人にとって、まさに地図屋としての出発点であったということができる。
新宿伊勢丹時代のAMS は、3階から7階までを接収して司令部、作業所、食堂、宿舎などに使い、多数の日本人技術者がここで地図製作に従事した。長谷川さんは当時の国会議事録を調査、事実関係を明らかにしている。それによると、AMS は昭和28年3月に新宿伊勢丹から王子キャンプに移駐、日本人勤務者は950名、昭和30年時点での写真図、地図シートの生産量は月産平均176シートであったという。
日本の地図調整技術は国際的にも高いレベルにあるというが、戦後の混乱期を経て今日までの半世紀にわたるその発展を支えたのは、陸地測量部(前身は明治21年に作られた参謀本部測量局)、ここを母体とする国土地理院(国土交通省)などの地図機関であるが、それととともにAMS の存在を忘れることはできないだろう。
|