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私が西山満喜夫さんと初めてお目にかかったのは12、3年前のことだ。東京カートグラフィック梶i以下TCG)の顧問であった古原雅郎さんと私が古くからの知り合いだったことから、
あるとき古原さんから西山さんをご紹介いただいた。
古原さんとの出会いは昭和30年代にさかのぼる。“電子計算機”の時代である。古原さんの会社が真空管式の科学計算用電子計算機Bendix G-15をアメリカから輸入、
計算センター事業を始めたことを、当時ライターだった私が取材して書いたことがきっかけであった。
その後、古原さんの会社の社史編纂やPR誌編集などで、古原さんにはずいぶん長い間お世話になった。古原さんと西山さんは、戦後、米軍極東地図局でともに働いた仲間であることを後に知った。
古原さんとの出会いが社史やPR誌など、文字にかかわることからであったが、西山さんとも同じように編集仕事が媒介する出会いであった。TCGが設立40年を迎えるにあたり社史を刊行することになり、
古原さんの推挙で私が取材、私の部下の片倉政美が原稿制作を担当して社史編纂が始まった。2000(平成12)年7月のことである。戦後の混乱期に、米軍地図局に勤務し、
地図製作の技術を習得するとともに、地図の知識、とりわけアメリカの地図製作のノウハウを十分に吸収した西山さんは、1960(昭和35)年、TCGを設立し地図調製事業のスタートを切った。
それから40年にわたる「地図屋」としての独立独歩を西山さんは淡々と語ってくれた。あの時のあのこと、あのこととあの人。西山さんは私たちの取材を楽しむかのように快く回想の扉を開いてくれた。
社史取材の前半は西山さんの自分史そのものであった。西山さんは1925(大正14年)2月、岡山県小田郡矢掛町(現在の井原市)で生まれた。
生家は「小倉織り」という現在のジーンズのような織物の工場を営んでいたそうだ。昭和12年3月、12歳の西山少年は東京に嫁いだ長姉を頼りに上京する。ここからが西山さんの地図人生の始まりなのだ。
尋常小学校を終えたばかりの田舎の少年にとって、岡山から東京までの一人旅はどんなにか心細かったことだろうか。回想する西山さんの目が眼鏡越しに潤んでいるのを私は見逃さなかった。
西山さんの地図との本格的な出会いは、次姉が嫁いだ西澤太郎さんという人が海軍水路部に勤務する地図の技術者だったことによる。西山さんは専門学校に通いながら西澤さんの地図製作の仕事を手伝い始める。
西澤さんは、戦時下の1943(昭和18)年には「日本中心表半球図」という地図を作製するなど地図製作のベテランだったらしい。その西澤さんによって、西山さんの地図人生の道は切り拓かれていったのだろう。
このくだりを、西山さんは懐かしそうに語ってくれた。私が「第2部は西山さんの自分史にしましょう」と言うと、「自分史だなんておこがましい。付録で結構ですよ」と、ちょっとテレ気味に言った。謙虚な方であった。
西山さんの地図人生は、戦後の米軍極東地図局からTCG 設立へと発展していった。その間の変遷をうかがっているうちに西山さんの人脈の豊富さに驚いた。国土地理院を頂点に、
日本の地図の世界にかかわる第一級の人たちと交流を重ね人脈を築いてこられた。官公庁、内外学界、出版界、同業界、どの領域の人にも親しまれた西山さんだった。
TCG の社史は西山さんへの取材を重ねながらだんだん形になっていった。扉に地図ソフトを挟み込んだユニークな東京カートグラフィック40年史『地図から智図へ』は2001年1月、無事刊行された。
社史が刊行されてからしばらくたったとき、西山さんから連絡をいただいた。「智図のTCG らしい雑誌を作りたいので相談に乗ってほしい」ということだった。
「地図屋は地図の世界だけで固まってはだめな時代です。幅広い世界と交流して視野を広げなければ」というのが西山さんの意見だった。私は直ちに「学際」という言葉を出した。
昭和40年代、私は古原さんの会社の季刊PR雑誌『学際』の編集人を務めた。学際とは、さまざまな専門領域の接合や複合、あるいは境界領域の問題を考えようという、
当時の経済、技術、科学、文化のあらゆる領域での問題意識を踏まえたコンセプトだった。GIS の発展によって地図世界にも大きな変化が訪れている。TCG がPR雑誌という形で専門と専門を繋ぐひろばの役目が果たせたら、
というのが西山さんの考えだった。こうして2003年1月、TCGのPR雑誌創刊号が発行された。題名は『地図の学際』だった。
編集会議の西山さんは、根っからの地図屋らしく、地図の蘊蓄を披瀝され、地図談義を楽しまれているようだった。時には社員の提案に鋭い質問を投げかけ、思うような返答がないと厳しい目で再考を促したりした。
西山さんは『地図の学際』が10号を重ねることをたいへん喜んでいた。私が「継続は力なりですよ」というと大きくうなずかれた。
編集会議で西山さんの温顔に接する機会は永遠に失われた。しかし『地図の学際』に託した西山さんの熱い思いは、後進の皆さんによって立派に継承されていくことだろう。
(編集者 潟Aイ・ピー・エイ社長)
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